連載:気まぐれゲーム雑記 第852回:ゲームに対して過激な批判が出る場合、感化されずに自身の意見を持つのが良い
意見を出せば、不満が出るのも現実である
不満をどう対処するのか
AZです。「あの難易度はこの遊び方じゃないと気に食わねぇ。」なら感情論なので理解はできますが、「この遊び方じゃないと悪である。」という強要は、その手のゲームを遊んでいる人たちに対し遊びの幅を狭めるだけだと思うのです。
それはさておき、Gearbox Softwareの最高経営責任者Randy Pitchford氏が過激な批判に対しての意見を述べています。
エンターテイメント作品に批判は付き物だとしながらも、一部にはサディストのような人もいると語っている。
Randy Pitchford
数百万という人々に届くメインストリーム向けのエンターテイメント作品を作る場合、確実に何万という人々に嫌われることになるし、その何パーセントかは、その気持ちを世間に知らせることが義務だと感じているんだ。私はこう解釈している。我々は彼らの感情を揺り動かしたんだ。自分のゲームを大嫌いな人にさえ影響を及ぼしている。だからこそ我々は戦うし、感情や体験を生み出している――中にはそうした気持ちを生きがいにしている人もいるし、サディストな人もいるんだ。
エンターテイメント作品を生み出すというのは、砂浜で砂のお城を作るようなものだとPitchford氏。
Randy Pitchford
砂のお城を壊したがる人というのは必ずいるもので、それが彼らの関係性の築き方なんだ。あまり知性的ではない部分だね。誰の心にも砂のお城を壊したくなる闇の部分があるものだが、殆どの人は尊重して手を出さない。だからこそ、大暴れしても誰も傷付かないビデオゲームが人気なんだよ。[引用元:Choke Pointさん]
なにかにつけて、文句を言いたい年頃な人もいるのでしょうね。
当ブログとしましては、今までこれといった過激な事は書いた覚えがまったくないくらい本音をオブラートに包むのが得意なわけですが、幾多もゲームをしていれば「致命的に(自分にとって)面白くないゲーム」と出会う機会があるのも事実です。そうなったとき、「どれだけつまらないか」を誰かに伝えたくもなりますし、インターネット上に公開したくもなるのは仕方がないところでもあるのは否定できません。……例題をあげますと、某社のイクシオンサーガは私にとってどこが面白いのかさっぱりわからないモノでしたし、未だに続いているという事に驚愕を隠せないわけでして……。
かといって、人間は十人十色と言われるだけのことはあり、プレイした人数分だけの意見や感想などが多々存在していることも間違いありません。自分の意見が「絶対的なモノ」として君臨するのはあくまでも自分の中だけであり、他者にまでそれを求めるのは厳しいモノがあるわけです。……たとえば、私の場合だと「アンリミテッド:サガ」なんかは楽しめちゃったタイプなのですよね。楽しめない人の意見が痛烈にわかるくらいにはアレ過ぎたので、余計にもどかしい作品でしたが。
ゲームの好き嫌いは「好み」の問題ですし、レビューに至っては誰が何を言おうと「主観」です。ただ、好きという内容よりも嫌う内容の方がより「センセーショナル」に映りますし、そういったところに感化されてしまう人が多いというのも何となくある話なのでしょう。しかして、一部のゲームにおいては「過激な批判こそ正しい場合がある」というのも、ゲームメーカーが抱えている問題と言える気がしてなりません。
どのゲームメーカーも、基本的には「より良くて売れるもの」を作ろうとしているのは間違いない事でしょう。願わくば、より過激な批判こそ正しいようなケースがなくなることを願いたいモノですね。ついでに、どのような評価が自分に合うのかを考えながら色んな人の批評を見つつ、自身の意見を持つようにしていくことをオススメします。
:過激な批判についての言及があったので、まぁ作品を出せば賛否が出るのも道理かな、と。
:賛成もありゃ反対も出るわな。
:特にゲームなら、そういうのが出やすいんじゃない? 過激な批判は、理不尽なモノとそうじゃないモノが存在してると思うけど、より過激に書きたいって人は世の中にいっぱいいるって思っておけば自分の意見を持ててよろしいかと。……自身の意見を押しつけてくる人は多いからねぇ。
:それこそ、理不尽に押しつけてくるよなぁ。
私は過激な意見がかなり苦手なのでレビューを見るのすら戸惑ってしまいます。
そういうのに振り回されて落ち込んだり不快な思いをするのも嫌ですし。